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バディとシーモア
誰も彼も一人残らず、演者がストイックに奉仕すべきシーモアの太っちょのオバサマなんだという達観と、彼女こそはイエス様その人なのだという直感との間には恐ろしい飛躍がある。
ゾーイーの言葉を弄ぶ悪癖がその場の興奮に乗じて彼の口を滑らせてしまったようなものだ。彼の性格造形はこのエラーを発生させるためだけに周到に準備されたものだといいたくなるほどだ。
フラニーのほうは、大好きなシーモアのアイディアであることが気に入り、また、 —- おそらく、これはゾーイーにしてもそうなのだが —- 太っちょのオバサマに神や真理とはまったく別の水準で愛を湛えて待ってくれている母の姿を無意識に重ね合わせ、だから結局は、ゾーイーが彼女を説得するために作り上げたせっかくの論理構成(エゴ嫌いのエゴ論)も虚しく、ただ人類全体とイエスをハイジのおじいさんの一種として受け入れ直したに過ぎない。
この小説の美しいカタルシスは、このように実は上滑りしている。
しかし、この不意をついた飛躍は、二人の物語を発動させてしまった罪の意識を持ったバディと、そして、癌に冒された太っちょのオバサマのイメージを二人にセットして死んでいったシーモアの企みにとってはたしかに奇跡だった。なにはともあれ、果てのない巡礼の道を歩ませてしまった幼子たちに、イエスの祈りの奥義はついに悟られたらしいのだ。
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